クンダリニーと神々のヨガ

ヨガの体験談を書いていきます

オープンダイアローグ(対話)を神に捧げる、聖霊教えてー!!!

 

(ざざっと書いたこの対話の方法論を聖霊に捧げます!

もっといいやり方を、聖霊版を、どうかおしえてください!)

 

 

 

◆対話の目的

・言葉という象徴を──「私たちがひとつであり、お互いに神の愛を共有していることを認識する」──という目的のために対話を用います。いつでもどこでも、誰とでも行えます

・他者を癒すことで、自分が癒える。私たちの所に来る人は偶然ではなく、聖霊によって向かわされた人々であり、彼らは最上の贈り物を携えてやってくる。私たちの内にある罪悪感を、彼らに投影することでそれを自覚する機会を得る。そして赦すことのできる機会をも与えてくれている。赦せば癒され、癒されれば自らも癒える。

・「聖霊との信頼関係」、「防衛のなさ」、「神聖な関係」、「癒しに難しさの序列はない」、「自らがどれほど赦しを必要としているか」を学べる。

 

 

 

◆癒しの定義

・「裁かず、つながり合い、一体性の反映」によって癒される

・裁きが止むとき、癒しが生じる。

・「互いの必要が満ちることは、ひとつのものとして満ちる」経験をすること
・「二人のものが、共通する関心やゴールを共有することでつながり合う」ことで癒される。別々の利害という感覚のすべてが無くならなければならない。

・「天国の一体性のつながり合い」を反映すると、癒しは起こる。
・一体性を求めること(祈り)によって癒える。
・自分と相手の「心と心がつながり合うような関係」が癒しを起こす
・「心はつながっている」ということを一度悟ったなら、「癒しに難しさの序列はない」ということが理解される。(これは癒されたヒーラーにとって不可欠な理解となる)
・分離の感覚がなくなればお互いに癒される。

・自らの罪悪感がなくなるほど、相手を癒せる

 

 

 

◆癒されないためにする行動

恐れ、攻撃し、裁くことで癒されないようにする

・「あなたと私は異なっている」ことを伝えることで、癒すことを拒める。
・「自分には傷つくものがあると信じて、それを教えること」。これにより私たちは癒されないようにできる。

 

 

 

◆訪れる人々との出会いを、「神聖な出会い」として見る
・私のもとへ訪れる一人ひとりの他者が、私自身を癒す機会を差し出してくれている
・自分の中で「まだ赦していないすべて」を相手の中に見ることになる。

・相手は、私の罪悪感が投影されるスクリーンであり、これにより手放すことを可能にする。目の前の他者によって罪悪感を直視する機会がもたらされ、赦すことが可能になっている。
・「誰もひとりだけでは癒されない」のである。

・他者は私たちを癒してくれる(機会をもたらす)存在

・ 「あなたがどんな間違いをなしても、私から、あなたへの愛に影響が及ぶことはない」を忘れない

 

 

 

◯心のレベルにおいて、天国の一体性を反映させる

 

1、会話という象徴を、「私たちはひとつであり、神の愛を私たちは共有していることを認識する」という目的のために会話を用います。(聖なる目的への決意)

私たちは不死のキリスト」「祈りの歌をうたう」(天国の一体性を思い出す)

 

2. 「純粋なキリスト」をそこに反映させる。キリストとしての私、聖霊としての私、という視点で物事を見る。そして常に、そこから響いてくる、聖霊の声に耳を傾ける。(心に響いてる聖霊の感覚・イメージ・メッセージを捉える、と同時に積極的に尋ねる)

今、聖霊は私に何を望まれますか?

 

3.無防備であることを心のレベルで保つ。

「防衛は不要であり、防衛しない態度が強さである」

 

 

↓形態のレベルに波及

 


1.裁かない、judgeしない、要求しない

 

2.解決を目指さない、変化を起こそうとしない、計画を立てない

 

3.応答、沈黙、伝え返し──「聞き切る」

(対話を続け、深める)

 

 

↓具体化

 

「あなたの話を聞きたい!おしえて!」

「わからないので、もっと教えくれませんか?」

「私的な秘密の思い、無意識の思いに気づいたら、できるだけオープンにする」

「他者の機嫌は取らない」

「苦労してきたこと、頑張ってきたことに注目する」

 

 

 


◆肉体は何のためにあるのか?(形態レベル)
・人がどんなことを言い行おうとも、「私はあなたを攻撃しない、裁かない、怒らない」ことを伝えるために肉体はある。そのための言葉があり、行動がある。(形態)

・相手の信じてる間違った自我の思考体系を、「私はそれによって影響されてない」ことを示すために肉体はある。それにより私自身の中でその間違った思考体系を弱め、正しい聖霊の思考を強めさせる。

・なにがあろうとも平安であることを示す。それを教えることで、自らが学ぶことになる。

 

 

 

◆小手先

◯その時そこの気持ち⇔「それで、どんな風にしたんですか?」

◯全部相談の形に持ってゆく。答えはその人の「内なる教師」が有している

◯その人は何によって一体性を求めようとしている?

◯欠乏の原理から あるに注目させる
「ない・足りない」ことに注目させるのではなく、「何が自分自身にはあるのか」に注目してもらう。

 

◯悩みと願いの注目
・そんな大変な状況で、どう乗り越えてきたんですか?
・できればそれは、どうなったら、いいのかなあ

 

◯ 過去の肯定
1.「いのちと環境の間で採用され維持されてきた適応の工夫は、『その当時のあなたが取りうる最善の方策だった』。ただ今の環境ではうまく適応されてないから、あなたはきっと困ってるのかなと思うんだけどどうかな?」という仮説の共有
 2.「ここに2つの力がせめぎ合ってるね」と、留めている・動きたい部分の葛藤関係を明らかにする。(「わたしはどちらがしたいのかな?」と本人に揺さぶりが起こることに期待する)
 3.「あなた自身の中で方針が立ちつつあるでしょう」と誘ってみる。何か決めてきたら「ああ、それはいいね賛成」と決めたことに賛成する。(後押しではなくその選択を承認する同行者がいる雰囲気)
 4.そのうちどちらかに動き出す、でも動き出さないなら揺さぶりが発生してないので「そこで勇気を出してどちらかを選んではダメだよ。それぞれに一理あるんだから、『動かずに考える』とはこうゆう時のことを言うんだよ」と言って抱える。

 

 

 

◆後日

◯二人の関係を聖霊に捧げて、神聖な目的のために使ってもらう

◯善きものを発見し、伝える

・人々との出会いの一つ一つから、必ず何か善きものが生じる。双方の関係においてそれこそが唯一実在するものであり、永遠で、喜ばしいものと思えるそれを「認識」することで、聖霊に祝福される。そしてそれを相手に「伝える」。なので、「この関係において何か善きものはあっただろうか?」と自問してみる。

 

 

 

 

◆思考の逆転

癒しが十分に行われてから、思考の逆転に関する質問や話題をするとよさそう。しかしこれは殆ど必要ないかもしれない。

 

◯願いを自覚するための問い
・目が覚めると好きな力が1つだけ備わっているとしたら、何がいいですか?
(そしてその力を何のために使いますか?どんなふうに力を表現しますか?)

・あなたにとって「強さ」とはどんなものですか?

・どんなものに「憧れ」を抱きますか?
・あなたがこれまで生きてきた中で、どのような体験が、最も心を生き生きとさせましたか? 
・ミラクルクエスチョン+「話したくないことは絶対に話さないでくださいね。具体的なものではなく、その雰囲気はどんな感じですか?」
・「自分の人生を一冊の本にして、名前をつけるとしたら何ですか?」→そのフェルトセンスを問いかける

(desireに触れて、世界への見方に変化を起こすことで、癒しをもたらす。)

 


◯まず共通の目標を相談する。

「人が現状から癒されるには、世界の見方が変わることが最重要です。今までとは異なる世界の捉え方、知覚の仕方が達成したとき、「あれ、今までなんで悩んでいたんだろう?」と思えるほど自然に問題は解消され、以前の問題はもうそれ以上”問題”として定義されなくなります。本人の中で。しかし世界の見方というのは、自己概念に依拠してます。私たちは自己概念を、自分が自分だと定義しているものを維持して、なんとかしたいのですが、世界の見方を変えるにはこの自己概念に変化がもたらされなければなりません。しかしそれはとてもストレスフルなことです。それは「今まで一度も考えもしなかった」ようなことを考えようというものであり、実は大地は存在しなかったと気づいたときの驚きを味わうものであり、その抵抗ははかりしれません。だからこれについて抵抗がでるのは自然なことですし、誰でもここを通っていきます」

 

 

 

 

 

◯思考の逆転のための問い(負荷が高いので注意)

──ザ・ワークの5つの質問

1、その状況についてストレスフルな考えは何ですか?

2.「──」という考えが、本当に真実かどうか、絶対に言い切れますか?それとも少し何かそうとは思えなかったりしますか?

3、もし「──」という考えを信じることで、どんな感情や反応が起こるんだろう
どのように感じたり、どんな行動を取りたくなりますか?

4、もし「──」という考えを信じていなかったら、なにが変わるんだろう
(そっと置くようにいう)

 

5、最後に逆転のプロセスを試してみよう

「──」という考えを逆さまにして、その逆が真実であることを示す具体的な例をひとつでもいいので探してみましょう。

 

 

 

 

──参考書籍

まんが やってみたくなるオープンダイアローグ(斎藤環.水谷緑 2021)

こんなとき私はどうしてきたか(中井久夫
開かれた対話と未来(2019)
オープンダイアローグ(2016.ヤーコ/トム)
感じるオープンダイアローグ(2021
精神療法でわたしは変わった(2022)
精神科医が教える聴く技術
治療的面接の工夫と手順(増井・池見)(2020)
技を育む(2011)

発達障害は治りますか?(2010)
心と身体といのちのこと(2020)
神田橋條治の精神科診察室(2018)
看護のための精神医学
神田橋條治 精神科講義(2011)
神田橋條治 医学部講義(2013)
心身養生のコツ 補講50 (2021)
心身養生のコツ (2019)

精神疾患をもつひとを、病院でない所で支援するときにまず読む本(2019)
面接法2(2012)
面接法(2002)
神田橋條治 スクールカウンセラーへの助言100(2021)
追補 精神科診断面接のコツ(84,1994)
精神療法面接のコツ(1990)
家族内パラドックス(1987)
ソリューションバンク(2005)

セラピストの技法(2019)
メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服(2016)
メンタライゼーションを学ぼう(2021)
聖霊のレッスン

奇跡講座

 

 

 

 

 

 

聖霊「すべての者にすべてを与えなさい」仏陀「我が目玉くり抜き、この肉全てを差し上げましょう」(ACIM)

 

 

奇跡のコースにて聖霊のレッスンAというパートがある。

そこで聖霊は「所有するためには、すべての者にすべてを与えなさい」と私たちに呼びかける。

もし仏陀がこれを読んだなら「もちろん」と言うに違いない。そう考えて、喜びに満ちた。

仏陀の過去世を集めた物語『ジャータカ』、このお話において彼はまだ全知を達成するまでの生ではあるが、それでも高いレベルの悟りに達していたことを示してくれる。盲人があなたの眼が欲しいと懇願すれば、自らの目玉をくり抜き差し上げる。あなたの財産が欲しいといわれれば喜んで全て与えるし、自らの肉を捧げものとするため火の中に飛び込むこともあった。

さらに、乞食が現れることは神に祈願しても難しいとさえ言う。(=与えるには欲する者を待たねばならない。何か与えたいけど与えられる者がいつも近くにいるとは限らない)

 

財物は取るに足らぬものであるが、それを布施することによって、それは実りあるものとなる。財は布施することによって財宝となる。布施されない財を持っていても、それは持っていないのと同じなのである。

──ジャータカマーラ(シビ王)


布施は、物惜しみ、貪り、愛著等の、心の悪い垢を浄化する。

布施は、輪廻の旅路の疲れを取り去る安楽の乗り物である。

布施は、無数の安楽の道に心を傾けさせる、永遠の親友である。

──ジャータカマーラ(コーサラ国王の前生)

 

 

布施は「功徳」という悟りを達成するためのエネルギーを集積する方法だからこそ、ここまで重要に語られる。悟りに興味がなくとも、お金持ちになりたい!有名人になってセレブな生活をしたい!と思ってる人も「功徳」がなければそれは叶いませんよ、叶えたかったら功徳を積みましょうということになる。輪廻は幻想だが、輪廻にずっぷりはまってる内はこの幻想世界のルールを上手に使っていく感じだろうか。

ちなみに、仏陀は弟子にまず野菜という「これなら…まあ誰かにあげてもいいかな…」と思えるものから始め、最終的には自分の肉体をなんの苦しみもなく与えることを目指させた。大乗仏教では、自分のものを与える修行パートである「布施」は、最終的にはそこを目指してる。

 

ただ聖霊の「所有するためには、すべての者にすべてを与えなさい」の意味は、行動レベルではなく、心のレベルだ。心のレベルで、真の赦しを行い、断片化された知覚を元に戻し、訂正する──心の中ですべてを与える。

行動を考慮しないなら、仏教よりやさしいーーー!!心のレベルだけでいいんですかーーー!という気持ちになる。もちろん自らの罪悪感を直視しなければいけないので、簡単なわけではないが、悪い心を起こさいのはもちろんとして、+行動レベルで「財を与え、不殺生、性的不品行をしない、悪口や冗談を言わない、物を欲しがらないとった戒律を守る…etcetc 」なのと比べたらどうだろうか。(やさしい気がしません??)

仏教の修行も「心の変革」を目指しているが、行動レベルを重視する気がするので、抑圧や我慢が生まれやすいと個人的に思う。(もちろんそれを補助するための方法もいっぱいあるのだが)

ACIMのユニークな点は、比較してみるとより顕著になり、楽しいなあと最近思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お店で楽しく食事してたら酔っ払いに絡まれた」さあどうする?!(ACIMの赦しの仮想シチュ)

※現在の私の理解度となります。

 

 

◯仮想シチュエーション

友人と楽しく食事してたら、突然酔っ払った知り合いから暴言を吐かれる。

前から思ってたけどあなたのそのへらへらした態度が気に食わない。自分だけが不幸だとでもいいたげなその目つきも嫌い。それからそれから……etc

それまで楽しかった雰囲気は壊れ、一気に戦場と化すお食事会。

もしこんなことが起きたら多くの方は驚き、動揺するでしょう。そのあと、怒り反撃するか、恐れてじっと耐えるか。ACIM学習者はこんなとき──心のレベルで──どんなプロセスを歩んでいるのでしょうか。

 

 

◆世界と人々の見解

・「これは私の罪悪感が外に投影されているに過ぎない。この脚本を書いたのも、暴言を吐くよう彼女に演じさせてるのも私だ。」(自分の心が原因であると認める)

・「すべてのイベントは真の赦しを行う「機会」として存在する。今回も見逃すわけにはいかない!これも赦せばまた一歩神の国に近づく!」(この世界の目的を赦しの教室として見る)

・「そしてキリストである彼女は、神の愛を求めている。『あり得ないと信じている神の愛が、私のためにちゃんとあるのだと、示してほしいです。』とこちらに呼びかけている。もちろんOK!あなたが無辜であること完全無欠のキリストであることを示します」(決意)

 

 

◆心のレベル

・「外に投影された罪悪感は一体なんだろう? ああ、わかった。私は彼女にジャッジされてひどく動揺している。これは私が人々を「裁いて」いる証しであり、またいつもどうせ私なんか……と自分が不幸なのを世界のせいしていることを教えてくれたのか。このイベントは「他者を裁くこと」「被害者であることを好む」ことの象徴か。(罪悪感の把握)

・「あなたは罪はなく、無辜であり、永遠で、全一で、完全無欠なキリスト」(決断の主体へと戻るための言葉のトリガー) 

聖霊のビジョンで見させてください」(相手をキリストだと見れるように聖霊に助けを求める)

 

 

◆気分を確認する

・以上が終わったら、気分を確かめる。いい気分かもやもやとした気分か?神聖な気分か怒りの気分か?

(気分がよく、神聖さを感じるなら「誤った知覚の訂正」(赦し)は実行されたとわかる)

・さらに先程までの「恐れ・動揺・不満」がどうなっているかも確認する。それはなくなっているか?まだ存在するか?存在するなら先ほどと比べ弱くなっているか?

(恐れといった様々なネガティブな気持ちが、穏やかな「平安」へと移行したならば、「誤った知覚の訂正」(赦し)は実行されたとわかる)

 

 

◆行動レベルを尋ねる

・「よし、さっきまでの恐れは平安に至った。心のレベルの次は何? そう行動のレベル」

聖霊よ、今私に何をすることを望みますか? 聖霊の愛が最も表現されるにはどうすればいいですか?

 

──────

───

 

 

──!

 

 

「OK、この状況では心の平安を保ちながら、静かに相手の話を聞いていればいいのね」

とか

 

「なるほどね、この前の案件でミスした話しをすればいいのね?じゃあ彼女の話が落ち着いたときに、そっと話してみます」

とか

 

「笑えばいいんですか? fufu たしかに何だか楽しくなってきたかもしれませんXD」

 

とかとか、

 

行動レベルにおいて画一的な答えはなく、その状況状況において、すべての関係者、すべてのキリストが癒される道を聖霊は教えてくれます。あとは行動レベルで実践してみるだけです。

 

 

◆行動したそのあとは、結果は顧みない

・「なんだか私の視点では、聖霊が教えてくれた行動は、善い結果になったとは思いにくい……んだけど、私はすべてのホログラフィックな時間を見れるわけじゃない。すべての時間を一挙に、全体的に見ている聖霊の方が『何が最も善いか』を知ってるものね。あとは聖霊に任せます。奇跡に序列はない。自分の罪悪感も聖霊に捧げられたし、よーし今日は帰るぞー」

 

 

end

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ACIMの真の赦しを実践してみて「あ、これは本物だ」という感覚(奇跡のコース)

 

真の赦しとは、誰かや何かの罪を本物にさせて許すのではなく、「誤った知覚の訂正」のことです。心のレベルにおいて自我の思考体系ではなく、聖霊の思考体系を選ぶこと。

ケネス・ワプニック博士、ゲイリー、シンディ…などなどが説明している赦しの方法を数回やってみたところ、

 

「え!まって一瞬で不満が消えた! 方法論としては曼陀羅瞑想に近いけれど本質的にはレベルが違うものだ、すごい!マントラを長時間唱えて神エネルギーで意識が満たされる状態に近いし、なんならさっきまでのネガティブな心が浄化されてるのもわかる。この気分めっちゃいいな……。それも一瞬でその状態に持っていってもらえる……ええー? どうしてこれが一般公開されてるの?………いやそうか人類というか、神の子がすばやく悪夢から目覚めてほしいからJはこれを伝えたのか……。インドの聖典『バガヴァッドギーター』でクリシュナ天は「常にわたしに意識をあわせよ」と救いの方法を開示しているが、ACIMでいう真の赦し──聖霊の思考を選択する──を常に行うとはまさにそうではないか? ”意識を合わせる”ってこういうことだったのか。すごい!!今までやってきた修行体系に不満はなかったけど、奇跡のコースやらなくてはっ!!」

 

こうして奇跡のコースを始めることにしました。まだ一ヶ月くらいでしょうか。

めちゃめちゃいい>< 

『奇跡講座』じたいの文章読んでると気分が高揚します。テキスト全部暗記したいなって。これはよきものです!

 

 

◆真の赦しのやり方(=誤った知覚の訂正)

1心の平安が乱れていないか24時間警戒する

2 心の平安がちょっとでも乱れたら「原因は他者や状況にあるのではなく、私が自我を選択したからだ」と認める

3次に「誤った選択をしたからこそ今わたしは平安ではない。自分の罪悪感を外に投影するのはもうやめよう。この夢を作ったのは私で、他者に演じさせてるのも私だ」と認める

4「聖霊よ、この状況を聖霊のビジョンで見させてください」とお願いする

5 他者や状況の”形態”を取り消し、その内なる「完全、全体、一体性、永遠、愛、無辜」なるキリストを観ようとする

(最終的にはステップが一体となり、「生き方」として自然になることを目指す)

 

多くの場合、真の赦しのやり方は3ステップで語られることが多いですが、解説者によって幅があるので(本質的には違わないと思います)五つに分けてみると私的に理解しやすい感じです。

赦しについてはワプニック博士などの解説を一度見るのをおすすめします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰依の重要性とACIM、けれども自我は帰依なんてしたくないのである

 

 

バクティヨガや大乗仏教において帰依は重要である。

神や仏陀などを深く信頼し、拠り所とすることで修行全体がスムーズに進み、教えへの疑念による停滞をはらってくれる。なによりも対象を信じる力により、困難な時期は命綱としての役割も果たす。

あまりにも自分に起きる現象が辛く、心が折れそうになっても、神から引っ張りあげられ、導かれ、「自分はひとりではない」という体験が積み重なることで、困難な時期を乗り越えられる可能性を高めてくれる。

チベット仏教においては修行の始めから終わりまで──つまり生涯──仏陀やグル(師匠)を帰依する修行がある。(グルヨーガや帰依の瞑想など)

それくらい帰依は大切な要素なのだけれど、自我はこれを嫌がる。

自分以外の誰かを100%受け入れることは、固有性をぎゅっと掴んで離さない彼らには冒涜的である。もう今では神を信じてるよと言えば、”自分のアタマで考えなければいけない!” みたいな雰囲気を感じるが、まさに自我は私たちを〈決断の主体〉の座に戻ってほしくないのだろう。しかし先人たちの知恵を信じるならば帰依の練習はした方がいいように思う。

 

『奇跡講座入門』にてケンもまた(正確な抜粋ではないが)以下のことを語っていたと思う。

・「自分と共に歩み、手を取ってくれる存在、自分を愛してくれる存在」がいなければ、あまりにも脅威として立ちはだかる罪悪感に踏み出せなくなります。

聖霊が気にかけてることは、「神から来た誰かがあなたと共にいて、あなたの手を取り、導いていることを認識するようになること」です。その慰めと安堵感があるからこそ、自我を超えて行けるのです。

・真理と愛を代弁してくれる存在、自らを違った見方で尊いものとして見てくれる存在がいること、共にいてくれることを私たちは知らないと、自我が激しく抵抗する時期を通過することは決して出来ません。

 

ACIMではあまり「帰依だいじだから!」と強く言われてるような気はしないが、一日を聖霊に委ねたり、決断のルールの所で私は自分で決定を下さないことを推奨されてるのは、まさに聖霊に対する帰依をやってねってことだと思う。

くわえて先述した『奇跡講座入門』の言葉などを鑑みるに、聖霊やJを信頼することは、ACIMを歩いていく上でけっこう見逃せない視点なんじゃないかと思う。もっと注意してみようと思う。

 

この帰依の文章を、すらすら言えるかどうか、口にすることに抵抗があるかないかで自我がどれほど嫌がってるか分かるかもしれない。

 

聖霊よ、私に何があっても、好ましいことでも好ましくないことでも、楽しいことでも苦しいことでも、良いことでも悪いことでも、どんな病や痛みに苛まれても、あなたの他に帰依する拠り所や保護者はいません。あなたは私の唯一の守護者、唯一の指導者、唯一の避難所、唯一の希望です。今から天国に目覚めるまで、あなたを信頼し、信じます。家族や友人の忠告や助言や自分自身の決断に頼りません。聖霊のみを助けとします。あなただけに忠誠を誓います。あなたの他に帰依する拠り所も希望もありません」

「わたしの思い、考え、行動のすべてを、判断することのすべてを聖霊に委ねます。聖霊のなすがままにわたしをおつかいください!」

 

すらすら言えるようになるぞ!!

 

 

 

 

 

 

大乗仏教とACIM(奇跡のコース)を比較する

※現在の私の理解度となります。理解度があがれば追記や修正をすると思います。どうぞよろしくお願いします。

 

ACIM(=奇跡のコース):

大乗仏教

 

 

◆あなたはなぜ苦しいのか?

ACIM:神から分離してしまったという信念によって。その信念によって罪悪感が生まれたから。

大乗仏教:悪業のカルマが潜在意識(アラヤ織)に蓄積しているから。そしてそれはやがて不幸となり現象化することによって、あなたは苦しい。遥かな過去世からエゴのために行動し続けてきたからこそ、今苦しまなくてはならないのです。

 

 

◆どうすればその苦しみから抜け出せるの?

ACIM:エゴの取り消し(undoing)によって。つまり心の訓練によって

(そうして「無意識の罪悪感すべて」をマインドから取り払う必要があります)

 

大乗仏教:エゴの解体と慈悲心を増やすことによって。つまり心の訓練によって

(そうして他者と自己を「同じひとつの存在」として真に思える必要がある)

 

 

 

◆さらに詳しく!

ACIM:自分のエゴを聖霊のもとまで運びこむこと。それはエゴの見方ではなく聖霊の見方で見るということ。一言でいえば「誤った知覚の訂正」。二言でいえば間違った信念(神と私は分離した!)を取り消すことで、心を訓練していきます。

 

大乗仏教:善行をなし、悪いことをやめ、心を制御する。このために「六つのパーラミター」により世界の見方を正しくし、言葉/行為/心を、エゴのレベルではなく、慈愛と慈悲のレベルにまで高め変化させる。そして「エネルギー的な行」を行うことで心の浄化を(エネルギー的な観点で)行い、慈愛と慈悲の実践を容易くする。

(善いことをすることで物事を達成するエネルギー(功徳)を積む。悪いことを止めることで悪業のカルマをこれ以上積まないようにし、さらに過去の悪業が現象化したときぐっと耐えることでそこで更に悪いことをしないようにする。すると過去世から溜まりに溜まってる膨大なカルマの浄化を早める)

 

 

 

 

◆具体的にどう心を訓練するの?

ACIM:毎日テキストを読み、ワークをし、生活の全てに対して「誤った知覚の訂正」(=赦し)を実践することによって、心を訓練する。

大乗仏教:毎日経典を読み、生活の全てに対して「六つのパーラミター」を実践する。また帰依、懺悔、随喜、回向、供養、瞑想…を加えることでより素早く悟りに至れるよう「功徳を積み悪業を浄化」することによって、心を訓練する。

 

(六つのパーラミターは、簡単に言うと「与える訓練、規則を守る訓練、何をされても怒らない訓練、努力を行う訓練…」である。これにより悟りを達成するエネルギー(功徳)を集積し、それが漏れないように防ぎ、過去世でたまった悪いカルマを浄化してゆく)

 

 

 

◆なんで毎日テキスト・経典を読むの?

ACIM:今までの世界の見方は間違ってたので、正しい世界の見方を知らなくてはいけません。既存の世界への見解を変えるために日々テキストを読みます。すると生活のあらゆる場面でその教えを思い出せるようになり、原因に根ざした真の赦しの実践をスムーズにさせます。

大乗仏教:今までの世界の見方は間違ってたので、正しい世界の見方を知らなくてはいけません。既存の世界への見解を変えるために日々経典を読みます。すると生活のあらゆる場面でその教えを思い出せるようになり、布施・持戒・忍辱・精進の実践をスムーズにさせます。

 

 

 

◆エゴとは?

ACIM:分離を強化する見方

大乗仏教:自分ひとりを幸福にしようとして、けれども結果的に幸福から遠ざかる考え方

 

 

◆おっと他者があなたを貶してきたぞ!ひどい悪口の数々! さて何を拠り所とする?

ACIM:どんなときも「真の赦し」を拠り所とします!

大乗仏教:どんなときも「菩提心」を拠り所とします!

 

 

 

 

◆エッセンスを一言で言うなら?

ACIM:エゴではなく、聖霊の見方で見る

大乗仏教帰依と菩提心

菩提心、それは六道輪廻にいる全ての衆生を解脱させようとする誓い。衆生の状態があまりにも悲惨なのでどうにか幸福になってほしい!まって幸福とはなに? それは煩悩による一時的な喜びではなく、ニルヴァーナに至ることによる永遠の安らぎ、壊れることのない完全な至福を手に入れること! でも今の自分では衆生をそこまて持ってけないよ!助けられるのはだれ? 全知者である仏陀だ!じゃあ私は仏陀になろう!仏陀になってその全知の力でみんなを悟らせよう!そのために真の教えを学び、修行します!!!!───この菩提心チベットでは「勇猛な決意」と呼ぶ。この菩提心が欠ければ、全ての修行は無意味と言い切るほどに大乗仏教において大切なものです)

 

 

◆ゴールは何?

ACIM:神の元へ帰ること

大乗仏教:輪廻が空っぽになるまで、全ての人をニルヴァーナに至らせること。だから何度輪廻しても構わない!転生するたびに多くの人を解脱させるぞ!

(彼ら菩薩は──大乗仏教において菩提心をもつものをこう呼ぶ──輪廻も世界も実は「空」だって知ってます。知識としてではなく体験のレベルでこの世界は空性だと確認した菩薩は偉大な菩薩です)