クンダリニーと神々のヨガ

ヨガの体験談を書いていきます

「お店で楽しく食事してたら酔っ払いに絡まれた」さあどうする?!(ACIMの赦しの仮想シチュ)

※現在の私の理解度となります。

 

 

◯仮想シチュエーション

友人と楽しく食事してたら、突然酔っ払った知り合いから暴言を吐かれる。

前から思ってたけどあなたのそのへらへらした態度が気に食わない。自分だけが不幸だとでもいいたげなその目つきも嫌い。それからそれから……etc

それまで楽しかった雰囲気は壊れ、一気に戦場と化すお食事会。

もしこんなことが起きたら多くの方は驚き、動揺するでしょう。そのあと、怒り反撃するか、恐れてじっと耐えるか。ACIM学習者はこんなとき──心のレベルで──どんなプロセスを歩んでいるのでしょうか。

 

 

◆世界と人々の見解

・「これは私の罪悪感が外に投影されているに過ぎない。この脚本を書いたのも、暴言を吐くよう彼女に演じさせてるのも私だ。」(自分の心が原因であると認める)

・「すべてのイベントは真の赦しを行う「機会」として存在する。今回も見逃すわけにはいかない!これも赦せばまた一歩神の国に近づく!」(この世界の目的を赦しの教室として見る)

・「そしてキリストである彼女は、神の愛を求めている。『あり得ないと信じている神の愛が、私のためにちゃんとあるのだと、示してほしいです。』とこちらに呼びかけている。もちろんOK!あなたが無辜であること完全無欠のキリストであることを示します」(決意)

 

 

◆心のレベル

・「外に投影された罪悪感は一体なんだろう? ああ、わかった。私は彼女にジャッジされてひどく動揺している。これは私が人々を「裁いて」いる証しであり、またいつもどうせ私なんか……と自分が不幸なのを世界のせいしていることを教えてくれたのか。このイベントは「他者を裁くこと」「被害者であることを好む」ことの象徴か。(罪悪感の把握)

・「あなたは罪はなく、無辜であり、永遠で、全一で、完全無欠なキリスト」(決断の主体へと戻るための言葉のトリガー) 

聖霊のビジョンで見させてください」(相手をキリストだと見れるように聖霊に助けを求める)

 

 

◆気分を確認する

・以上が終わったら、気分を確かめる。いい気分かもやもやとした気分か?神聖な気分か怒りの気分か?

(気分がよく、神聖さを感じるなら「誤った知覚の訂正」(赦し)は実行されたとわかる)

・さらに先程までの「恐れ・動揺・不満」がどうなっているかも確認する。それはなくなっているか?まだ存在するか?存在するなら先ほどと比べ弱くなっているか?

(恐れといった様々なネガティブな気持ちが、穏やかな「平安」へと移行したならば、「誤った知覚の訂正」(赦し)は実行されたとわかる)

 

 

◆行動レベルを尋ねる

・「よし、さっきまでの恐れは平安に至った。心のレベルの次は何? そう行動のレベル」

聖霊よ、今私に何をすることを望みますか? 聖霊の愛が最も表現されるにはどうすればいいですか?

 

──────

───

 

 

──!

 

 

「OK、この状況では心の平安を保ちながら、静かに相手の話を聞いていればいいのね」

とか

 

「なるほどね、この前の案件でミスした話しをすればいいのね?じゃあ彼女の話が落ち着いたときに、そっと話してみます」

とか

 

「笑えばいいんですか? fufu たしかに何だか楽しくなってきたかもしれませんXD」

 

とかとか、

 

行動レベルにおいて画一的な答えはなく、その状況状況において、すべての関係者、すべてのキリストが癒される道を聖霊は教えてくれます。あとは行動レベルで実践してみるだけです。

 

 

◆行動したそのあとは、結果は顧みない

・「なんだか私の視点では、聖霊が教えてくれた行動は、善い結果になったとは思いにくい……んだけど、私はすべてのホログラフィックな時間を見れるわけじゃない。すべての時間を一挙に、全体的に見ている聖霊の方が『何が最も善いか』を知ってるものね。あとは聖霊に任せます。奇跡に序列はない。自分の罪悪感も聖霊に捧げられたし、よーし今日は帰るぞー」

 

 

end