クンダリニーと神々のヨガ

ヨガの体験談を書いていきます

聖霊「すべての者にすべてを与えなさい」仏陀「我が目玉くり抜き、この肉全てを差し上げましょう」(ACIM)

 

 

奇跡のコースにて聖霊のレッスンAというパートがある。

そこで聖霊は「所有するためには、すべての者にすべてを与えなさい」と私たちに呼びかける。

もし仏陀がこれを読んだなら「もちろん」と言うに違いない。そう考えて、喜びに満ちた。

仏陀の過去世を集めた物語『ジャータカ』、このお話において彼はまだ全知を達成するまでの生ではあるが、それでも高いレベルの悟りに達していたことを示してくれる。盲人があなたの眼が欲しいと懇願すれば、自らの目玉をくり抜き差し上げる。あなたの財産が欲しいといわれれば喜んで全て与えるし、自らの肉を捧げものとするため火の中に飛び込むこともあった。

さらに、乞食が現れることは神に祈願しても難しいとさえ言う。(=与えるには欲する者を待たねばならない。何か与えたいけど与えられる者がいつも近くにいるとは限らない)

 

財物は取るに足らぬものであるが、それを布施することによって、それは実りあるものとなる。財は布施することによって財宝となる。布施されない財を持っていても、それは持っていないのと同じなのである。

──ジャータカマーラ(シビ王)


布施は、物惜しみ、貪り、愛著等の、心の悪い垢を浄化する。

布施は、輪廻の旅路の疲れを取り去る安楽の乗り物である。

布施は、無数の安楽の道に心を傾けさせる、永遠の親友である。

──ジャータカマーラ(コーサラ国王の前生)

 

 

布施は「功徳」という悟りを達成するためのエネルギーを集積する方法だからこそ、ここまで重要に語られる。悟りに興味がなくとも、お金持ちになりたい!有名人になってセレブな生活をしたい!と思ってる人も「功徳」がなければそれは叶いませんよ、叶えたかったら功徳を積みましょうということになる。輪廻は幻想だが、輪廻にずっぷりはまってる内はこの幻想世界のルールを上手に使っていく感じだろうか。

ちなみに、仏陀は弟子にまず野菜という「これなら…まあ誰かにあげてもいいかな…」と思えるものから始め、最終的には自分の肉体をなんの苦しみもなく与えることを目指させた。大乗仏教では、自分のものを与える修行パートである「布施」は、最終的にはそこを目指してる。

 

ただ聖霊の「所有するためには、すべての者にすべてを与えなさい」の意味は、行動レベルではなく、心のレベルだ。心のレベルで、真の赦しを行い、断片化された知覚を元に戻し、訂正する──心の中ですべてを与える。

行動を考慮しないなら、仏教よりやさしいーーー!!心のレベルだけでいいんですかーーー!という気持ちになる。もちろん自らの罪悪感を直視しなければいけないので、簡単なわけではないが、悪い心を起こさいのはもちろんとして、+行動レベルで「財を与え、不殺生、性的不品行をしない、悪口や冗談を言わない、物を欲しがらないとった戒律を守る…etcetc 」なのと比べたらどうだろうか。(やさしい気がしません??)

仏教の修行も「心の変革」を目指しているが、行動レベルを重視する気がするので、抑圧や我慢が生まれやすいと個人的に思う。(もちろんそれを補助するための方法もいっぱいあるのだが)

ACIMのユニークな点は、比較してみるとより顕著になり、楽しいなあと最近思います。