クンダリニーと神々のヨガ

ヨガの体験談を書いていきます

帰依の重要性とACIM、けれども自我は帰依なんてしたくないのである

 

 

バクティヨガや大乗仏教において帰依は重要である。

神や仏陀などを深く信頼し、拠り所とすることで修行全体がスムーズに進み、教えへの疑念による停滞をはらってくれる。なによりも対象を信じる力により、困難な時期は命綱としての役割も果たす。

あまりにも自分に起きる現象が辛く、心が折れそうになっても、神から引っ張りあげられ、導かれ、「自分はひとりではない」という体験が積み重なることで、困難な時期を乗り越えられる可能性を高めてくれる。

チベット仏教においては修行の始めから終わりまで──つまり生涯──仏陀やグル(師匠)を帰依する修行がある。(グルヨーガや帰依の瞑想など)

それくらい帰依は大切な要素なのだけれど、自我はこれを嫌がる。

自分以外の誰かを100%受け入れることは、固有性をぎゅっと掴んで離さない彼らには冒涜的である。もう今では神を信じてるよと言えば、”自分のアタマで考えなければいけない!” みたいな雰囲気を感じるが、まさに自我は私たちを〈決断の主体〉の座に戻ってほしくないのだろう。しかし先人たちの知恵を信じるならば帰依の練習はした方がいいように思う。

 

『奇跡講座入門』にてケンもまた(正確な抜粋ではないが)以下のことを語っていたと思う。

・「自分と共に歩み、手を取ってくれる存在、自分を愛してくれる存在」がいなければ、あまりにも脅威として立ちはだかる罪悪感に踏み出せなくなります。

聖霊が気にかけてることは、「神から来た誰かがあなたと共にいて、あなたの手を取り、導いていることを認識するようになること」です。その慰めと安堵感があるからこそ、自我を超えて行けるのです。

・真理と愛を代弁してくれる存在、自らを違った見方で尊いものとして見てくれる存在がいること、共にいてくれることを私たちは知らないと、自我が激しく抵抗する時期を通過することは決して出来ません。

 

ACIMではあまり「帰依だいじだから!」と強く言われてるような気はしないが、一日を聖霊に委ねたり、決断のルールの所で私は自分で決定を下さないことを推奨されてるのは、まさに聖霊に対する帰依をやってねってことだと思う。

くわえて先述した『奇跡講座入門』の言葉などを鑑みるに、聖霊やJを信頼することは、ACIMを歩いていく上でけっこう見逃せない視点なんじゃないかと思う。もっと注意してみようと思う。

 

この帰依の文章を、すらすら言えるかどうか、口にすることに抵抗があるかないかで自我がどれほど嫌がってるか分かるかもしれない。

 

聖霊よ、私に何があっても、好ましいことでも好ましくないことでも、楽しいことでも苦しいことでも、良いことでも悪いことでも、どんな病や痛みに苛まれても、あなたの他に帰依する拠り所や保護者はいません。あなたは私の唯一の守護者、唯一の指導者、唯一の避難所、唯一の希望です。今から天国に目覚めるまで、あなたを信頼し、信じます。家族や友人の忠告や助言や自分自身の決断に頼りません。聖霊のみを助けとします。あなただけに忠誠を誓います。あなたの他に帰依する拠り所も希望もありません」

「わたしの思い、考え、行動のすべてを、判断することのすべてを聖霊に委ねます。聖霊のなすがままにわたしをおつかいください!」

 

すらすら言えるようになるぞ!!